私がハービー・ヤングの陶芸に出会ってから既に20年近くの年月が過ぎている。ハービーは、私たち日本人の多くが認識するアメリカ人のイメージとは大きくかけ離れ、物静かで人を吸い込んでしまうかのような淡いブルーの瞳が印象的な男だ。初来日の後、故郷に戻って、ハービーが産業生産品としての陶器ではなく、陶芸という文化、美術としての陶器を創造しようとした時に、アメリカでは陶芸が文化の産物と認められないことに気づいた。かつて、1900年代初めにバーナード・リーチと濱田庄司「日本民芸運動の重要な功労者達」が英国セント・アイヴスに渡り、東洋式の登り窯を築き陶芸を試みたときに、“陶芸家”という言葉が無かったために、自分たちのことを“アーティスト・クラフトマン”と名乗ったという逸話がある。結局ハービーは陶芸が文化として認められている日本に戻った。
二度目の来日で益子に根付いたハービーの陶芸は、その最初期に西洋的な合理性と東洋への憧れとが目立ち過ぎることもあったが、ここ数年の作品は独自の工夫を凝らした緑色を呈した鉄釉系の飴釉、志野風の乳濁した長石釉等を主体として、近年失われつつある益子の香り漂う土物の陶芸を生み出している。限られた釉薬と土で豊富なバリエーションを創り始めているハービーの陶芸に対する姿勢を見ていると、かつて益子の伝統的な6種類の釉薬で、無限ともいえる作行きの広い陶芸を展開した濱田庄司を髣髴とさせる。
ハービーは学生時代、カリフォルニア大学で心理学を専攻していたからだろうか、東洋の陶芸に宿る深い精神性に共感を覚えているように見える。若いときに多くの陶芸を見て学ぶことに費やした経験が50歳を過ぎた今、彼の器としての形は徐々に静謐を極め、自らの陶芸を伝統的と言い切り、新奇な器形は影を潜めながらも個性としての表現は無作為の形の中に現れている。長い鶴首の壷などは、単に使うだけの器形を越えて心地よく、日本的な“間合い”や“均衡”を得たかのようだ。この高い完成度を指示しているハービーの陶芸を見ていると、私たちが長い年月に培ってきた“見立てる”という日本の陶芸の根底にある美意識さえも、己のものとしてしまうのではないだろうかと思えてくる。
益子陶芸美術館
横堀 聡